LOGIN悲鳴は、声にならなかった。
救急車の天井の白さがぐにゃりと歪み、杏奈の視界は再び闇に呑まれた。意識が途切れる最後の瞬間まで、彼女は赤く濡れた指先を見つめていた。お腹を庇い続けたその手が、今、最も恐れていたものを告げていた。 次に目を覚ましたとき、杏奈は白い病室にいた。 窓の外は、すでに夜だった。点滴の管が、腕から細く伸びている。消毒液の匂い。規則正しい電子音。すべてが、あの余命を告げられた日と同じだった。違うのは――下腹に当てた手のひらに、もう、あの小さな熱が感じられないことだった。 杏奈は、すぐに悟った。悟ってしまった。 それでも認めたくなくて、彼女は枕元のナースコールを、震える指で押した。 やがて現れた医師は、あの日と同じ、痛みをこらえるような顔をしていた。その表情を見ただけで、杏奈にはすべてが分かった。けれど医師は、それでも、言葉にしなければならなかった。 「神崎さん。残念ですが……お腹のお子さんは、助けられませんでした」 静かな病室に、その言葉がゆっくりと染み込んでいった。 土砂の衝撃と、長時間の圧迫。母体が受けた負担は、あまりにも大きすぎた。懸命の処置も、間に合わなかった。 ――医師は、そう続けた。けれど杏奈の耳には、もう半分も届いていなかった。 「……そう、ですか」 杏奈の声は、不思議なほど凪いでいた。 涙は、出なかった。泣き叫ぶことも、取り乱すこともなかった。ただ、胸の奥がしんと冷えていくのを感じていた。まるで、体の内側に、音もなく雪が降り積もっていくように。 医師が去り、ひとりになった病室で、杏奈は、空っぽになった下腹をそっと撫でた。 ほんの数日前、ここには、たしかに命があった。淡い黄色のおくるみを夢見た、小さな命が。「お父さんになるのよ」と告げる日を心待ちにしていた、自分とこの子の、ささやかな未来が。 その何もかもが、冷たい瓦礫の下で消えた。 「……ごめんね」 杏奈は、誰もいない病室で、声に出して詫びた。 「守って、あげられなくて……ごめんね」 ようやく、一筋の涙が頬を伝った。けれどそれは、堰を切ってあふれるような涙ではなかった。一滴、また一滴と、静かに落ちる、凍えた涙だった。 あのとき昴は、すぐそこにいた。呼べば届くはずの、それだけの距離に。 もし、あのとき、彼が自分を選んでいたら。軽い擦り傷の亜里沙ではなく、瓦礫に埋もれた妻を、先に助け出してくれていたら。この子は――この子は、今もここにいたかもしれない。 その考えが、杏奈の胸を刃のように貫いた。 けれど彼女は、もう、昴を責める気力すら湧いてこなかった。 責めて、どうなる。詰って、どうなる。あの人は、選んだのだ。何のためらいもなく、迷う素振りもなく、亜里沙を。それが、彼の答えだった。五年間ずっと、自分が知らないふりをしてきた、残酷な答え。 わたしは、最初から、彼に選ばれる側にはいなかったのだ。 病室の扉が、開いた。 杏奈は、反射的に顔を上げた。一瞬、むなしい期待が胸をよぎった。もしかして、昴が――。 けれど、入ってきたのは、見知らぬ施設の職員だった。事故の状況確認と、書類の説明。事務的な用件を済ませると、その人は気の毒そうに告げた。 神崎昴さまは、宝生亜里沙さまに付き添われて、別の病院にいらっしゃいます、と。 杏奈は、薄く笑った。 そうですか、とだけ答えた。 夫は、来なかった。妻が我が子を喪ったその夜に、彼は、軽傷の女のそばにいた。 それが、すべてだった。 その瞬間、杏奈の中で、何かが音もなく死んだ。 五年間、灯し続けてきた、ひとつの火。冷たくされても踏みにじられても、決して消えなかった、昴への愛。いつか報われると、長い冬には必ず終わりがあると、信じて守り続けてきた灯火。 それが今、完全に消えた。 不思議なほど、静かだった。悲しみも、怒りも、もう湧いてこなかった。ただ、長いあいだ握りしめていたものを、ようやく手放したような――奇妙な軽さだけがあった。 愛が、終わった。わたしの、長い片想いが。 翌日、杏奈は、医師の制止を振り切って退院した。 体は、まだ悲鳴をあげていた。瓦礫に押しつぶされた打撲も、流産後の体も、本当は安静を要する状態だった。けれど、もう、この場所にいたくなかった。夫の来ない病室で彼を待ち続ける惨めさに、耐えられなかった。 神崎邸に戻ると、家の中はしんと静まり返っていた。昴は、まだ帰っていなかった。当然だ。彼は今、亜里沙のそばにいるのだから。 杏奈は、ゆっくりと夫婦の寝室へ向かった。 五年間、背を向けて眠る夫の背中を見つめ続けた、あの部屋。一度も、本当の意味で、二人のものにはならなかった部屋。 彼女はクローゼットを開け、自分の荷物をまとめはじめた。といっても、持ち出すものは、ほとんどなかった。昴の好みに合わせて選んだ地味な服。彼が好まないからとしまい込んでいた、かつての華やかな自分の名残。そのどれも、もう要らなかった。 杏奈が、ただ一つ、手に取ったもの。 それは、結婚指輪だった。 左手の薬指から、彼女はゆっくりと指輪を抜いた。細く美しい指が、五年ぶりに、その重みから解放された。指輪は、思っていたよりもずっと軽かった。 杏奈は、それを、ドレッサーの上にそっと置いた。 そして、机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。いつか、こんな日が来ることを、心のどこかで予感していたのかもしれない。ずいぶん前に、密かに用意していた、離婚届。 彼女は、自分の欄に、震える手で名前を記した。 神崎杏奈。 書き終えたとき、杏奈は、ふと思った。この名前とも、もうすぐお別れなのだ、と。神崎の姓を捨て、また、徒花杏奈に戻る。 徒花――咲いても、実を結ばない花。皮肉なほど、今の自分にふさわしい名だと思った。 ――いや。 杏奈は、ペンを置いた。 戻る、ではない。わたしには、もう、戻る時間さえ残されていない。 あと一年。医師が告げた、命の残り。その中で、自分はどう生きればいいのだろう。何のために生きればいいのだろう。守るべき子も、もういない。愛した人も、もういない。 空っぽだった。 杏奈は、署名済みの離婚届を、ドレッサーの指輪の隣にそっと置いた。これを、昴への最後の言葉にしよう。何も告げず、ただ静かに消えよう。彼の人生から。彼の世界から。 病のことも、流産のことも、最後まで言わずに。彼にとって、わたしの不在は、きっと何の痛みも残さない。むしろ、清々するだろう。これで、邪魔な妻がいなくなり、心置きなく亜里沙と――。 そこまで考えて、杏奈は、自嘲するように口元を歪めた。 もう、いい。考えるのは、やめよう。 彼女は、最低限の荷物を入れた鞄を手に、寝室を出た。最後に一度だけ、振り返る。五年間を過ごした部屋。一度も愛されなかった、けれど、たしかに自分が生きた場所。 さようなら、と、声には出さず、杏奈は呟いた。 玄関を出ると、冬の冷たい風が頬を撫でた。空は、よく晴れていた。あの、妊娠を知った日と同じ、薄く澄んだ冬の空。 行く当てなど、なかった。けれど、足は自然と、一つの場所へ向かっていた。 母の、いる場所。 徒花桜子。杏奈の、たった一人の肉親。かつては凛とした女医だったが、今は病を得て、療養所で静かに暮らしている、優しい母。父に捨てられ、女手ひとつで杏奈を育ててくれた、たった一人の家族。 愛も、子も、未来も、すべて失った今、杏奈に残された、ただ一つの温もり。 母に、会いたかった。 すべてを話せなくてもいい。ただ、あの優しい瞳に、もう一度だけ包まれたかった。残された一年を、母のそばで静かに過ごせたなら――それで、もう十分だと思った。 杏奈は、療養所へと向かう電車に乗った。窓の外を流れる景色を、ぼんやりと眺めながら。 空っぽの心に、それでも、母の顔を思い浮かべると、ほんのわずかに、温かいものが灯った。 お母さん。 今から、会いに行くね。 けれど――療養所の最寄り駅に降り立った杏奈を待っていたのは。 母の、優しい笑顔ではなかった。 彼女の携帯が鳴った。静寂を引き裂くように。表示されていたのは、療養所からの、緊急の電話だった。 震える指で通話ボタンを押した杏奈の耳に、職員の、切迫した声が飛び込んできた。 「徒花杏奈さんですね? お母さまが――桜子さんが、先ほど、急に倒れられたんです」扉の向こうは、静寂と薄暗がりに沈んでいた。 昴の書斎。広い室内には、天井まで届く書架が壁を埋め、重厚な執務机が窓を背にして据えられていた。 カーテンは半ば閉じられ、差し込む朝の光が、宙に舞う埃を白く照らしている。男の匂いがした。彼の纏う、冷たく乾いた香り。それが、この部屋にも染みついていた。 杏奈は、そっと足を踏み入れた。 心臓が痛いほど鳴っていた。もし、見つかったら。けれど、引き返すつもりはなかった。これは、自分が立てた誓いの、最初の一歩なのだ。 部屋は、塵ひとつなく整えられていた。 けれど、二歩、三歩と進んだところで、杏奈の足が止まった。 匂いだ。 彼の乾いた香りの下に、別のものが混ざっている。甘く、重く、まとわりつくような――昨夜、この部屋に満ちていたはずの香水。 杏奈は、ゆっくりとソファのほうへ目をやった。 クッションは整えられ、グラスも片づけられている。それでも、背もたれの布地に、明るいブラウンの髪が一本、朝の光を受けて金色に光っていた。 杏奈は、それを、長いこと見つめていた。 ――この部屋には、五年間、一度も入れてもらえなかった。 掃除さえ許されなかった。近づくことも、扉に触れることも。この家で最も固く閉ざされ、妻でさえ立ち入りを拒まれた、男の聖域。 その聖域のソファで、あの女は、髪を乱していたのだ。 喉の奥から、笑いがせり上がってきた。声にならない、乾いた笑い。杏奈は、口元を手で押さえた。 滑稽だった。あまりにも。 五年間、この扉の前を通るたび、そっと足音を殺していた自分。彼の領域を侵さぬよう、息を潜めていた自分。その健気さの、なんという無意味さ。 ――そして、そこで、笑いが止まった。 だったら、なぜ。 杏奈は、光る一本の髪を見つめたまま、動けなくなった。 これほどまでに、あの女に溺れているのなら。この聖域にまで招き入れ、髪を乱させ
神崎邸の玄関ホールに、艶やかな声が響き渡った。「おかえりなさい、奥さま。――ああ、もう、奥さまでもないのかしら?」 宝生亜里沙。 昴の、初恋の女。普段はか弱く可憐なシングルマザーにしか見えないというのに、今の彼女の表情には、かつて昴の前で見せていた従順さなど微塵も残っていなかった。明るいブラウンの髪をいつものように惜しみなく巻き、赤い唇を、勝ち誇った弧に歪めている。 彼女は、まるでこの家の女主人であるかのように、玄関ホールの中央に立っていた。 杏奈は、何も言わず靴を脱いだ。流産と、母の急変と、昨夜の契約。あまりにも多くのものにすり減らされた体は、もう、亜里沙の挑発に反応する気力すら残していなかった。 その沈黙が、かえって亜里沙を苛立たせたらしい。彼女は、ヒールの音を響かせながら、杏奈に近づいてきた。「聞いたわよ。あなた、昴さんの所有物になったんですってね。妻の座も失って、ただの道具に」 亜里沙は、くすくすと喉を鳴らして嗤った。「みじめねえ。でも、お似合いよ。あなたみたいな地味で退屈な女には、それがちょうどいいわ」 杏奈は、亜里沙の顔を静かに見つめた。 不思議だった。以前なら、この言葉に、胸を抉られただろう。けれど今は、奇妙なほど、何も感じなかった。愛が死に、子を喪い、絶望の底まで落ちきった心には、もう、傷つく余白すらなかったのだ。「……何か、ご用ですか」 杏奈の凪いだ声に、亜里沙はわずかに鼻白んだ。「ご用? ふん。これからは、わたしがこの家に自由に出入りするから。そのつもりでいなさい、ってこと。昴さんが、許してくださったの。わたしと、わたしの可愛い子のために」 ――子。 その言葉に、杏奈の胸の奥が、ほんのわずかに疼いた。失った我が子の面影が、よぎる。けれど、彼女はそれを表情に出さなかった。「だから、あなたは――」 亜里沙は、勝ち誇ったように続けた。「これからは、使用人として、わたしに尽
神崎の本社ビルは、夜空を貫くように、冷たくそびえていた。 最上階の総帥室。その重厚な扉の前で、杏奈はしばらく立ち尽くしていた。流産したばかりの体は、まだ鉛のように重い。 けれど、彼女を躊躇わせていたのは、体の痛みではなかった。この扉の向こうで、夫が――いや、もう夫とも呼べないあの男が、自分に何を突きつけてくるのか。それが、わからなかったからだ。 けれど、もう引き返せない。母の命が、この扉の向こうに人質に取られている。 杏奈は、深く息を吸い、扉を押し開けた。 広大な部屋の奥、夜景を背にして、昴は立っていた。 漆黒のスーツに包まれた、長身の体躯。整えられた前髪の下で、切れ長の双眸が、入ってきた杏奈を冷ややかに射抜いた。誰もが振り返るほどの美貌。けれどその美しさは、今、人を凍てつかせる、剥き出しの刃のようだった。「来たか」 昴の声は、低く、静かだった。 杏奈は、彼の前まで歩み寄り、まっすぐに立った。震える膝を、必死に押さえながら。「……母の手術費のこと、あなたが手を回したと、聞きました」 声が、掠れた。けれど、彼女は目を逸らさなかった。「口座を凍結したのも、わたしの仕事を奪ったのも、あなたなんですね。なぜ、こんなことを。わたしは、もう、あなたの前から消えるつもりでした。離婚届も、置いてきたはずです」 昴の口元が、わずかに歪んだ。冷たい笑みだった。「消える? お前が?」 彼は、ゆっくりと杏奈に近づいた。「勝手に消えることなど、許すと思ったか。お前は――俺の許しなしに、どこへも行けない」 その瞳の奥に、杏奈は、奇妙な光を見た。怒りとも、執着ともつかない、暗く激しい何か。けれど、彼女には、それを読み解く余裕などなかった。「……何が、望みなんですか」 杏奈は、震える声で問うた。「母を助けるために、わたしは、何でもします。だから――」「何でも、だと?」 昴は、その言葉を冷ややかに繰り返した。そして、杏奈の顎を、冷たい指ですくい上げた。その瞳が、彼を映して揺れる。「いいだろう。お前の母親の手術費は、俺がすべて出してやる。最高の医師も、設備も、用意してやる。――その代わり」 彼は、顔を近づけ、囁いた。冷たい吐息が、杏奈の頬を撫でる。「お前は、今日この時から、俺の所有物になれ」 杏奈の心臓が、冷たく軋んだ。「妻ではない。人間ですら
「お母さまが――桜子さんが、先ほど、急に倒れられたんです」 その言葉を聞いた瞬間、杏奈の足元から、世界が崩れ落ちた。 彼女は、駅の改札を駆け抜けた。流産したばかりの体が悲鳴をあげるのも構わず、ただひたすらに走った。タクシーを拾うと、療養所までの道のりが永遠のように長く感じられた。窓の外を流れる景色も、運転手の声も、何ひとつ頭に入ってこない。胸の中で、ただ一つの祈りだけが繰り返されていた。 お母さん。どうか、無事でいて。 お願い。あなたまで、わたしから奪わないで。 療養所に着くと、桜子はすでに、近くの大きな病院へと搬送されたあとだった。杏奈は再びタクシーに飛び乗り、その病院へと向かった。受付で母の名を告げると、案内されたのは、集中治療室の前の、薄暗い廊下だった。 ガラス越しに、母の姿が見えた。 徒花桜子。かつては、凛とした女医だった人。白髪の混じった髪をいつもきちんとひっつめにして、患者思いの、まっすぐな医師だった。 けれど今、ベッドに横たわるその姿は、痛々しいほどに痩せ細り、無数の管に繋がれていた。穏やかな寝顔だけが、昔と変わらず、杏奈とよく似た優しさを湛えていた。「……お母さん」 杏奈は、ガラスに手をつき、声を震わせた。 やがて、担当の医師がやってきた。その表情は、重かった。 桜子は、もともと、重い病を患っていた。療養所での生活も、その治療の一環だった。けれど、病はここへきて急速に進行していた。今すぐ大きな手術を行わなければ、命の保証はできない。――医師は、そう告げた。「手術を、お願いします」 杏奈は、即座に答えた。考えるまでもなかった。母を救えるなら、何でもする。「お願いします。母を、助けてください」 医師は、痛ましげに、けれど誠実に頷いた。そして、続けた。「ただ……非常に難しい手術になります。専門の設備と、海外からの医師の招聘も必要です。費用が――かなり、高額になります」 その金額を聞いたとき、杏奈は息を呑んだ。 数千万。とても、今の自分に用意できる額ではなかった。 杏奈には、自由になる財産が、ほとんどなかった。神崎の妻という立場にありながら、彼女が自由に使える金は、わずかな生活費だけ。昴は、妻に財産を持たせることを決して許さなかった。籠の鳥に、外の空を見せないように。 けれど――昴の妻という立場を使えば。彼に頭を下
悲鳴は、声にならなかった。 救急車の天井の白さがぐにゃりと歪み、杏奈の視界は再び闇に呑まれた。意識が途切れる最後の瞬間まで、彼女は赤く濡れた指先を見つめていた。お腹を庇い続けたその手が、今、最も恐れていたものを告げていた。 次に目を覚ましたとき、杏奈は白い病室にいた。 窓の外は、すでに夜だった。点滴の管が、腕から細く伸びている。消毒液の匂い。規則正しい電子音。すべてが、あの余命を告げられた日と同じだった。違うのは――下腹に当てた手のひらに、もう、あの小さな熱が感じられないことだった。 杏奈は、すぐに悟った。悟ってしまった。 それでも認めたくなくて、彼女は枕元のナースコールを、震える指で押した。 やがて現れた医師は、あの日と同じ、痛みをこらえるような顔をしていた。その表情を見ただけで、杏奈にはすべてが分かった。けれど医師は、それでも、言葉にしなければならなかった。「神崎さん。残念ですが……お腹のお子さんは、助けられませんでした」 静かな病室に、その言葉がゆっくりと染み込んでいった。 土砂の衝撃と、長時間の圧迫。母体が受けた負担は、あまりにも大きすぎた。懸命の処置も、間に合わなかった。 ――医師は、そう続けた。けれど杏奈の耳には、もう半分も届いていなかった。「……そう、ですか」 杏奈の声は、不思議なほど凪いでいた。 涙は、出なかった。泣き叫ぶことも、取り乱すこともなかった。ただ、胸の奥がしんと冷えていくのを感じていた。まるで、体の内側に、音もなく雪が降り積もっていくように。 医師が去り、ひとりになった病室で、杏奈は、空っぽになった下腹をそっと撫でた。 ほんの数日前、ここには、たしかに命があった。淡い黄色のおくるみを夢見た、小さな命が。「お父さんになるのよ」と告げる日を心待ちにしていた、自分とこの子の、ささやかな未来が。 その何もかもが、冷たい瓦礫の下で消えた。「……ごめんね」 杏奈は、誰もいない病室で、声に出
その夜、昴は帰ってこなかった。 杏奈が温め直した夕食は、二度、冷めた。リビングの灯りの下で、彼女は明け方近くまで夫を待ち、結局は子供のことを告げる機会を逃した。 翌朝戻った昴は、いつもの冷ややかな横顔で、どこに泊まっていたのかも告げず、ただ「着替える」とだけ言って寝室へ消えた。 それから、数日が過ぎた。 杏奈は何度も切り出そうとした。お腹に、命が宿っていることを。けれど、そのたびにあのSNSの写真が瞼の裏をよぎり、声が喉の奥で凍りついた。 昴の、自分には決して向けられない、あの優しい笑み。亜里沙の腕の中の、幼い子供。「家族っていいね」という、無邪気で残酷な言葉。 それでも、伝えなければ、と杏奈は思っていた。この命にだけは、罪はないのだから。 * * * 機会は、思いがけない形で訪れた。 神崎家が出資する、地方の保養施設。その視察に、昴が同行を命じたのだ。夫婦そろって顔を出さねばならない、という、ただそれだけの同行。 それでも杏奈は、わずかに期待した。慣れない土地で、二人きりの時間が少しでもあれば――そのときこそ、子供のことを打ち明けられるかもしれない、と。 けれど、その期待は、現地に着いた瞬間に砕けた。 施設には、亜里沙がいた。 昴が呼んだのか、彼女が押しかけたのかは分からない。ただ、亜里沙は当然のように昴の隣に立ち、当然のように杏奈へ、あの猫のような目を向けた。「あら、奥さま。こんな田舎まで、わざわざご苦労さまです」 艶やかな赤い唇が、嗤いの形に歪んだ。 杏奈は、何も言い返さなかった。言い返す気力も、もう残っていなかった。ただ、夫の隣に立つ華やかな女と、その傍らで何も咎めない昴を、静かに見つめていた。 視察の最中も、亜里沙は終始、昴に寄り添っていた。足元が悪いと言っては彼の腕に縋り、寒いと言っては彼の上着を求めた。 昴は、それを拒まなかった。杏奈には一片の優しさも見せないその手が、亜里沙にだけは